Sakhalin

2010 カーチャへの旅

Statement

樺太庁恵須取郡恵須取町。北海道から北へ50kmも満たない位置にあり、現在はサハリンという地名でロシアの一部とされているが、記録の上では1949年まで日本の一部として存在した、私の祖母の故郷である。恵子、という名前の由来は、おそらく町名からとられたのであろう。学校の同じ組には「恵子ちゃん」が5、6人いたと祖母は言う。当時、急速な発展を遂げる王子製紙で働いていた曾祖父の縁あって、付属の病院で看護婦として働いていた祖母は、カーチャ、と呼ばれていた。「けいこ」という名前はどうもロシア人にとって発音しづらかったらしく、頭文字のKをとって、Katja(カーチャ)というあだ名がついた。幼い頃から聞かされた祖母の昔話には、ロシア語が登場し、ロシア人との交流の様子や、寒い地域ならではの風習など、祖母の田舎をおとぎ話のように想像するのが楽しかった。そんなぼんやりとしたイメージを、年を重ね、更なる話を聞くことによって実際に見てみたいと思うようになった。ほとんど当時の跡形は残らず、廃墟と化した街でもなお、この目で見た祖母の故郷は、どこかわたしの空想と重なる部分があり、私はカーチャに想いを馳せる。

この夏、私と祖母は樺太へ行った。昭和23年、終戦後の引き揚げ以来、62年間その地を訪れていなかった祖母の帰郷、ぼんやりと空想していた祖母の昔話への、私の旅。

2011 フレップの種子

Statement

「ここが郵便局のあったところだから、あの辺が家だな。そしたらあそこが小学校だ。うん、間違いない。」

 草むらに身を寄せ合うようにして民家が数軒。あとは小高い丘と針葉樹の林が続く、荒涼とした光景が目の前に広がっている。ここで私たちを乗せたバスは止まった。私がバスの止まった理由を探している間もなく、目の前の地形を指でなぞるように差しながら、隣で話し始める人がいた。
1年間想い続けた、誰かの故郷。
祖母の指を赤く染めたフレップが実る頃、再び樺太へ渡った。

2012

Statement

祖母の生まれ故郷が見たいと行き始めたサハリンも、今回で3回目の渡航になる。
これまで墓参団と行動を共にしていたが、かねてから自分の足でじっくりと街を歩いてみたいとおもっていたので、無理をお願いして、現地の方の家に泊めていただくことにした。
ところが恵須取につくと、手違いで、泊まるはずだった民家には他の人が泊まる手配がなされていた。戸惑う私をみて、迎えにきてくれていた現地側の女性の一人が、ロシア語で声をかけてきた。状況がいまいちわかっていない私の荷物を持ち上げて、住宅街へ歩き出す。後ろを振り向くと、一緒にきた墓参団たちは、気をつけてね、と手を振っている。彼女の家に泊まらせてくれるのか、とそこではじめて気づき、別れの挨拶もままならないまま、急ぎ足で荷物と彼女を追いかけた。今までは街のメインストリートから眺めていただけの、廃墟の奥。窓ガラスが取り除かれ、黒く四角い大きな穴がいくつも開いた建物を通り過ぎたとき、今までの風景からは想像もできない、真新しく色鮮やかな遊具を囲んだ、3棟の集合住宅が現れた。そのうち手前の建物に入っていく。重く錆び付いた扉をあけると中は薄暗く、とてもカビ臭い。誰が工事をしたのか、階段はすこし傾いていて段差もちょうどよかったり、少し低かったりで足を取られる。こわもての彼女は汗をかき、ふうふういいながら荷物を手にゆっくりゆっくりのぼっていく。手伝おうかというと、手を振り、また一段、一段のぼっていく。くもった二重窓からの柔らかい光に照らされた、宙に舞う大量の土埃の中、彼女の足取りがさらに重くなってきた。不安になり見上げると、最上階についていた。3つの扉のうち一番きれいな、エナメル加工がなされた木の扉をあけると、確かに誰かが暮らしているにおいが、ふっと優しく鼻に香った。

2013 樺太アネクドーツ

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ある日、東海岸で働く父親を訪ね、祖母は家族と汽車に乗った。道中、泊まるところもなかったので、海沿いの漁師の家の戸をたたいた。隙き間から潮風が吹き荒ぶ、寒い木造の家だったので、漁師がこれで暖かくしなさいと、熊の毛皮を与えてくれたそうだ。ところが、布団代わりにとかぶった動物の皮は、生々しい強烈な匂いを放つ上、小屋ごと吹き飛ばしてしまいそうな勢いの強い風は、幼い祖母にとってあまりにも恐ろしく、寝られなかったという。寒い冬はロシア人の大男たちが末端の冷えを防ぐため、足に布をぐるぐる巻にして、大きなブーツを履く。子供たちが学校へ行くには、あまりの積雪量のために、皆スキーを履いて通学した。

2013年2月、冬のサハリンで、幼い頃に聞いた祖母の昔話が、自分の目の前で次々と再生されていくのを見た。ただそれは、今その土地に生きる人たちを通して描かれた現在と、その人たちが思い描く未来のサハリンであって、知っていた昔話が、いつの間にか私の記憶として、新しい地図のように目の前に広がっていくのを感じた。

2013 マヤ・ドーチ

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加賀谷ナージャとは、半年ぶりの再会だった。最初に出会った時のように、バザール前のバス停で、現地の日本人と一緒に私たちが来るのを待っていてくれた。再会の挨拶も早々に、じゃあ行こうか、と一年前と同じように私の荷物を持ち上げ、自宅の方向へ歩き出した。いつものように、49番のエナメルドアをあけると、丸い顔に丸い目の小さな女の子がたっていた。ヤナ、と紹介してくれた。最初は3つしかない部屋をあちらこちらへ行ったり来たり、私から隠れるようにしていたが、すぐに仲良くなった。それにしても、どこか見覚えのある顔だった。「クトー?」とナージャに尋ねると、「ナージャ、ねえさん、ドーチ」と言う。娘にしては若すぎるので、姉の孫娘、と言いたいのであろうか。そういえば、と思い出してキッチンの冷蔵庫を見ると、扉に幼いヤナの写真が貼ってあった。ナージャには、一人娘のオリガがいるが未婚なので、いったいどこの子だろうと、昨年の滞在時に疑問に感じていたのを思い出した。
ナージャの部屋にはシングルベッドが2つくっつけて置いてあり、私はいつもナージャとオリガの間に寝かせてもらう。今回は4人もいるので、ナージャが床に布団を敷いて、そこで寝るという。なんだか申し訳なくて、代わろうというと、「ナージャ、あちいから」と襟元をパタパタ仰ぎながら、私をベッドの上に寝かせてくれた。ヤナは2つのベッドの境目が気に入らないらしく、布団の中をごそごそ動き回っている。それを見て「ちっこいヤナ」とナージャが笑う。オリガはそんなこと気にもとめない様子で、早々に眠りについた。12時前に、ようやくヤナが寝静まり、消灯したとき、ナージャが突然ベッドの下から私の手をにぎった。「ミホコ、めんこいドーチ、ナージャのドーチ」と片言の北海道弁とロシア語で同じ言葉を繰り返した。

このウグレゴルスクという街は、1948年まで恵須取(えすとる)と呼ばれ、約4万人の日本人が暮らしていた。しかし2013年現在、この街の日本人は、ナージャと彼女の兄、弟の3人だけになってしまった。日本時代の遺構がわずかに残っているだけのこの街は、ゆっくりとかつての面影を失いながら、着実に未来に向かっている。そんな街のこと、そこで暮らすナージャのこと、その彼女が私を自分の娘と呼んだこと。ぼんやり考えながら、そのままナージャと手をつないで寝た。